笑いの社会性 善人でも笑いを禁じ得ない

 一人でいる時は何ともないのに、誰かと一緒にいる時には笑いを禁じ得ないという事例が無数にある。

 

 ここで言うのは、お互いの友好性を確認し合うような笑いではなく、ある他人を標的にしてなされる侮辱的・攻撃的な笑いである。

 

 家で一人でいる時、よっぽどおかしいものを見ない限り、笑うということはそうそう無いだろう。

 これに対して、誰かと一緒にいる時、外出して不特定多数の他人がいる公共の場にいる時、ほんの些細なものに対して、笑いを禁じ得ない場面がしばしばあるという経験は無いだろうか。まるで、笑いの感性が高ぶって、少しの刺激にたいしても暴発しそうな、そんなイメージである。

 

 例えば、不注意によりつまずいて転んでしまった人がいるとする。これを一人で、家の中から窓越しにそれを目撃した場合、あなたは多少の可笑しみは感じるものの、まだ笑いをこらえ切れる程度である。むしろ憐憫の情がわき起こるかもしれない。

 しかしこれが、家族など誰かと一緒に見ていた場合、つまずいて転んだ人を指さして、笑ったりからかったりするだろう。そんなことはしないまでも、なにやら気まずい空気が流れるだろう。その気まずさとは、転んだ人に対して何らかのリアクションをしなければならないという、かすかではあるが強制的な何かを背後に感じるだろう。一人で見ていた時に感じた自由な感情は抑制され、「笑わなければならぬ」という義務感的命令の下に、気が付けば顔面筋肉は歪み、転んだ人を指さしているであろう。

 

これはほんの例に過ぎない。実際、公の場において、一人ではまったくおかしくないのに、集団になったとたん、無意識的に彼らと共謀して、指さして何かを笑うのである。「おい。あれ見ろよ」的な笑いである。

 

人にはそれぞれ自分なりの信念というものがあり、善というものを持っている。社会的弱者に対し憐憫の情を持ち、寄り添おうとする気持ちも持っている。

 

しかし現実の社会においては、社会的弱者は笑いものにされることがしばしばである。人は群衆になった途端、固有の感情は封じ込められ、社会が求めるある一定方向に向けて矯正される。不本意ながらも、皆に合わせて、笑おうと思っていなかったものを思わず笑ってしまうのである。

 しかも、その笑いは確かに可笑しみを伴っている。愛想笑いのような随意的な笑いではなく、確かに可笑しいから笑っているのである。

 ベルクソンが著書「笑い」の最終章において、次のように述べる。

 

 「この傲慢の中に我々は直ちに自己主義の少量を識別し、そして、その自己主義そのものの背後に何かもっと自発的でない、もっと苦々しいもの、笑い手が自分の笑いにさらに理由をつければつけるほど、いよいよ動かしがたいものになってくる何かしら一種の萌芽的ペシミズムを識別するだろう。

 

 萌芽的ペシミズム、つまりどうしようもない悲観論、

 一人一人が持つ固有の感情、善意、それらを押しのけてまで、社会はその目指す方向に個人を仕向ける。そしてそれは快楽という褒美を与えて実行される。 

 

 極端な例えをするなら、マザー・テレサほどの情に厚い善人でさえ、社会がそれを要求するのならば病人であれ何であれ、それを笑い得るということである。