2+2=5

2+2=5

何も考えず、この方程式を見てほしい。頭をからっぽにして、様々な憶測を排除して、純粋に、ただただこの方程式を見てほしい。

 

すると、やや弱い可笑しみが伴うことがわかるであろう。

およそ脳裏に浮かぶのは、例えば算数のできない子供が間違えたのかもしれないし、あるいはいい歳をした大人が、一種の放心によって間違えたのかもしれない。というビジョンだ。

 

いずれにせよ、「2+2は5じゃなくて4だろう!」というツッコミが即座に思い浮かんできたのではないだろうか。

 

なぜ、可笑しみが伴ったのだろうか。

 

まず数字とは、人間が作りだした記号であり、言葉に比するほど、長きにわたって人間が使用してきた人工的道具であり、強固な習慣である。そして、人間が言葉を話す習慣と同じくらい、計算するという習慣もまた強固なものである。

 

重要なのは、数字も算術も、どちらも習慣であるということである。

 

可笑しみは、この人間の習慣によって自動的に惹き起こされる感情である。

 

数式を例に持ち出したのは、数式は言葉に比べて人間的な要素が希薄で無機質であるので、習慣によって可笑しみが生じるという現象を説明するのに適切だと思ったからである。

 

数字も算術も人間が作りだしたものであり、人間的なものである。

2+2=5 を見て人が強い関心を寄せるのはやはり、この誤った方程式を作った人間であり、その不注意さ、つまりあくまで人であり性格である。

虚栄心の現われ 自分を低く見積もる傲慢さ 謙虚さと傲慢

虚栄心と言われれば大抵、それは自己を過大評価することを指すだろう。

 

しかし、行き過ぎた謙遜は傲慢だとも言われる。ベルクソンは「笑い」において、以下のように述べる。

 

人が思うよりもずっと傲慢に近い肉体的な臆病

 

臆病が傲慢?というのが最初の感想だ。どうして臆病と傲慢がリンクするのか。

 

そこで、臆病と傲慢の関係性について調べてみる。

 

確かに、自分を実際の実力以上に見積もることと、それ以下に見積もることは、自分を不当に評価しているという点は同じである。

 

自分を過大評価することが傲慢であることに異論ある人は少ないだろうが、逆に過小評価する人をして、これを傲慢だと言えるだろうか?

 

行きすぎた謙遜による自己の過小評価は、自信の無さからくるものであろう。自分に自信のない人間は、おそらく何事かにつけて他人に施してもらおうとするであろう。自分から与えることをしないで、相手から与えられることを期待するだろう。確かにそう考えれば、臆病は傲慢と深い関係があると言える。

 

すると、謙虚さは、自信のない人間の持つ虚栄心とも言い換えられる。

 

そうだとすると、いつも自信なさそうにオドオドしている人間が滑稽に見えるというのも筋が通る。その人のオドオドした形態の中に、ある種の虚栄心を見ているのだ。

 

ベルクソン 「笑い」

笑い (岩波文庫 青 645-3)

 

私たちは、普段何気なく笑っているが、実はこのことは驚くべき事実なのである。

 

他の動物を見てわかる通り、人間以外の動物は基本的に笑うことが無い。最近の研究によると、くすぐりによる反射的・生理的な笑いはネズミなどの小動物にもみられるそうだが、殊に「おかしくて」笑う、というのは人間だけの特殊な現象なのだ。

 

つまり、精神的な要因によって、ある種の空想力によって、内部から沸き起こってくる笑いは、人間だけの特権なのだ。

 

本書は、科学的正確さと厳密性を持って「笑い」について研究した稀有な書である。

 

注意してもらいたいのは、本書は、副題として「可笑しみの意義についての試論」という題目を持っている通り、可笑しみによって喚起される笑いに限定して論じられている。だから、くすぐりによる生理的笑いや、社交による儀礼的な作り笑い、意図的に嘲笑する笑いなど、可笑しみによって引き起こされない笑いは取り扱わない。

 

アリストテレス以来、かつての哲学者は、この笑いという問題を明らかにしようとしてきたがことごとく失敗した。そのことについてベルクソンは、笑いの持つ社会的意義を閑却しているから、であると考えた。

 

まず、笑いはとてつもなく無礼な行為であり、無条件に他人の身なりや行動を矯正する力を持っている。そして、何らの特殊な鍛錬も要さず、自らの意思とは関係なく独りでに発する自動的なものである。人々は笑われることを恐れ、自らを矯正しようとし、そのことによって社会の安定や平穏は保たれ、人々は生活していくことが出来るのである。だから、笑いが何の意味もなく人間に備わったとは考えにくい。

 

以上のことからベルクソンは、笑いは、人間の共同生活のある要求に応じているものであり、ある社会的意義を持つものであるに違いない、と考えた。

 

本書は、笑いのこの社会的意義、特に人間にとって有用な意義を決定するということを主眼に置いている。だから、笑いを「~場合は笑い、~場合は笑わない」などという単純な定式に閉じ込めようとすることが本書のねらいではない。

 

そもそも、笑いとは人間の生きた感情であり、再現性が無いのである。一度笑えたことも、二度目は慣れてしまって笑わないということが往々にしてある。だから、物理法則のように単純な因果の法則(それは現象が反復可能であることを前提にしている)に閉じ込めてしまおうという発想自体が無理であり、かつての哲学者たちが笑いを捉えることに失敗した理由はそこにある。

 

本書を丹念に読み込めば、笑いに関する知見だけでなく、広く人間社会の本質についても知ることができるだろうと思う。

人の笑い顔を見て感じる 寂しさ

笑顔とは違う、“笑い顔”

 

smile(スマイル) ではなく laugh(ラーフ)の笑い。

 

人を侮辱する笑い顔。

 

人が何かを見て失笑する時の顔つき、ニヤニヤしたいやらしい顔つき、こういう顔を見るたびに、何とも言えない怒りと寂しさに襲われる。

 

人の笑い顔から見えるのは、その人の虚栄心である。

 

かっこつけたい、素晴らしい人間に見られたい、そういう誰しもが持っている卑しい欲望。

 

笑いは、その人の内に隠れている虚栄心を露わにする。

 

虚栄心は、真の情緒的な、人間的な心の触れ合いを阻害する。

 

だから、寂しさを感じるのだ。

 

人間社会がどれだけ豊かになろうとも、この虚栄心による地獄は無くならないだろう。

“生けるものの上に張り付けられた機械的なもの” と 虚栄心 との繋がり

 ベルクソンの「笑い」における研究主眼は、人がおかしみによって喚起される笑いの、社会的存在意義を決定すること、特に、人間にとって有用な意義を決定することであった。

 

 そして、最終章・性格のおかしみにおいて、「人は人の性格を笑うのであり、その性格とは虚栄心である」と述べている。

 

 人は人の性格を笑う、というのがベルクソンの研究の出発点であり、人がなぜ人以外の単なる物体や事件をも笑うのか、これを説明することに多くのページを費やしており、これが第一章~三章の内容になる。だからこのことを踏まえて読み進めないと、いきなり前半から理解不能に陥る。

 

 石に躓く疾走者などの単純な事例をあげつつ、「生けるものの上に張り付けられた機械的なもの」、どうやらこのようなビジョンが、人を笑わす機構のようであり、以後これをベンチマークにしながら第一章から第三章の理論は展開される。最終的な結論である「人は人の性格を笑う」という原理に結び付けられるかどうかを常に確認しながら。

 

 であるとすれば、最終章において論じられた虚栄心も、機械的な性格ということになるだろう。

 

 なぜ虚栄心は機械的な性格といえるのか。

 

 思うに、虚栄心は偽りの自分を演じることであるから、一種の仮装の観念を抱かせる。それは常に何かの真似事である。

 さらに、虚栄心は知性の産物であり、したがって幾何学的思考の産物である。人間社会を形成するために自然的に人間に備わったものである。

 

 虚栄心が、その人にふさわしいほど自然で一体化したものならば、人はそれを笑わないであろうし、

 逆に不自然であったり身分不相応であったりして、その人に溶け込まない場合の虚栄心は、その人の内部に入り込まず、あたかも表面を漂っているかのように見えないだろうか。例えば、似合わない服装、時代遅れな言葉遣い、などはその分かりやすい例だろう。

 

 そのような虚栄心は、生けるものの上に張り付けられた機械的なもの、というふうに見ることができ、本書の論旨が一貫して見えてくる。

人間にはなぜ虚栄心があるのか

人は何故、虚栄心を持つのだろうか。

 

自然はなぜ、人間に虚栄心を持たせようとしたのか。

 

虚栄心は、自尊心ほど強くなく、外圧に屈しやすく、もろいものである。

 

だから、個人が生き抜くうえで虚栄心は、ほとんど何の役にも立たない。人が虚栄心を守るために捧げる努力は並々ならぬものであるにも関わらず、それは自分を信じない心、常に不安や恐怖を原動力としているため、折れやすく脆い。

 

このように、虚栄心は個人の生きる力を、むしろそぎ落とすものなのだ。

 

ここで推測できることは、自然は、人間個人の生きる力を、“人間社会”を形成する力として利用したのではないか。ということだ。

 

人間社会は、ほとんど虚栄で成り立っている。自然的な必然によって成り立っているものはほとんど無い。道徳、宗教、文化、慣習、法律、道路・建築物その他インフラ設備、私たちが生活していくうえで欠かせないこれらのものは、すべて人間の思考が作りだしたものであり、一種のフィクションである。先住民族など極めて文明化されていない集団においてさえ、ある種の宗教がある。

 

そして、人間が生きていくためには、生まれた場所における社会に適応していかなければならない。人間は動物のような本能が無く、思考によって行動しなければならず、これに自己を適応させようとすれば、必然的に偽りの仮面を纏うことになる。

 

この仮面こそ虚栄心である。

 

だから虚栄心は、人間が生活していくために必要不可欠な人間社会に適応しようとするため、人間に必然的に備わったものだと考える。

人は何故笑いを隠すのか

人は人前で笑うことを隠そうとする。

 

それはなぜか。また、この際何を隠そうとしているのだろうか。

 

まず、その顔面筋肉の歪んだ表情であろう。それは笑顔とも違う“笑い顔だ”

 

笑い顔は、人が人とのコミュニケーションにおいて友好的でもなく、かといって明確に敵対的でもない、特殊な表情である。

 

とにかく人は、この意味も無い笑い顔を人前にさらすことを嫌がるのである。それは一種の強い不格好だからだ。

 

人は、髪型や服装や、しぐさ、言葉遣いなどについて不格好になることを嫌う。表情も自分の容姿の一つであるからして、人がなぜこれらを隠そうとするのかが分かれば、人がなぜ笑い顔を隠そうとするのかも分かるだろう。

 

 

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ところで、人の序列意識は、何に由来するのであろうか。

 

「あいつは自分より上で、あいつは自分より下だ」

このように考えるのは、何を基準にしているのであろうか。

 

思うにそれは、虚栄心をいかに隠せているか、ということではないだろうか。

 

「オトナになる」という表現の意味するところはつまり、虚栄心を人に悟られないようにふるまえる、という意味だろう。

 

大人っぽい人というのは、外見やふるまいからその虚栄心を悟られにくい人なのである。

 

人は本能的に見下されることを恐れるから、こうして皆大人になろうとして躍起になる。

 

言葉遣いや、服装に対し人があれほど気を使うのは、無意識にその虚栄心を隠そうとする努力の現われなのである。

 

 人の虚栄心は、社会に対し実害を与えるほど深刻な性格的欠点ではない。しかし社会がこうむる不利益があることも確かなのである。虚栄心は人を自分の世界にこもらせる。だからこれに歯止めをかける必要があるが、この方法こそが笑いなのである。

 人の虚栄心を傷つける方法として、これほど効果的かつ簡単な方法は他にない。虚栄心は劣位の感情に弱い。毅然とした罰はかえって虚栄心を燃え上がらせさえする一方で、人は他人から投げかけられる笑いひとつで、いとも簡単に態度を改めようとするのである。

 

だから笑いは、むき出しになった虚栄心に対してなされる制裁なのである。

 

だが、虚栄心を笑うのもまた虚栄心なのである。

 

自然は、人間の悪を利用したのである。悪を持って悪を制す、とベルクソンが言ったのはこの意味においてではないかと思う。

 

人の虚栄心をもって、他の虚栄心を制するのである。

 

だから、人が誰かの虚栄心を笑う時、その笑い顔を通して、相手もまた、笑った者の虚栄心を見透かすのだ。

 

それを本能的にわかっているが故、人は笑い顔を隠そうとするのではないだろうか。

 

笑いは、人のむき出しになった虚栄心を見て喜ぶ優越の感情であり、フロイトの言葉を借りて直訳するならば

 

「私はアイツより社会的に上手くやれているぞ」ということになる。