“生けるものの上に張り付けられた機械的なもの” と 虚栄心 との繋がり

 ベルクソンの「笑い」における研究主眼は、人がおかしみによって喚起される笑いの、社会的存在意義を決定すること、特に、人間にとって有用な意義を決定することであった。

 

 そして、最終章・性格のおかしみにおいて、「人は人の性格を笑うのであり、その性格とは虚栄心である」と述べている。

 

 人は人の性格を笑う、というのがベルクソンの研究の出発点であり、人がなぜ人以外の単なる物体や事件をも笑うのか、これを説明することに多くのページを費やしており、これが第一章~三章の内容になる。だからこのことを踏まえて読み進めないと、いきなり前半から理解不能に陥る。

 

 石に躓く疾走者などの単純な事例をあげつつ、「生けるものの上に張り付けられた機械的なもの」、どうやらこのようなビジョンが、人を笑わす機構のようであり、以後これをベンチマークにしながら第一章から第三章の理論は展開される。最終的な結論である「人は人の性格を笑う」という原理に結び付けられるかどうかを常に確認しながら。

 

 であるとすれば、最終章において論じられた虚栄心も、機械的な性格ということになるだろう。

 

 なぜ虚栄心は機械的な性格といえるのか。

 

 思うに、虚栄心は偽りの自分を演じることであるから、一種の仮装の観念を抱かせる。それは常に何かの真似事である。

 さらに、虚栄心は知性の産物であり、したがって幾何学的思考の産物である。人間社会を形成するために自然的に人間に備わったものである。

 

 虚栄心が、その人にふさわしいほど自然で一体化したものならば、人はそれを笑わないであろうし、

 逆に不自然であったり身分不相応であったりして、その人に溶け込まない場合の虚栄心は、その人の内部に入り込まず、あたかも表面を漂っているかのように見えないだろうか。例えば、似合わない服装、時代遅れな言葉遣い、などはその分かりやすい例だろう。

 

 そのような虚栄心は、生けるものの上に張り付けられた機械的なもの、というふうに見ることができ、本書の論旨が一貫して見えてくる。

人間にはなぜ虚栄心があるのか

人は何故、虚栄心を持つのだろうか。

 

自然はなぜ、人間に虚栄心を持たせようとしたのか。

 

虚栄心は、自尊心ほど強くなく、外圧に屈しやすく、もろいものである。

 

だから、個人が生き抜くうえで虚栄心は、ほとんど何の役にも立たない。人が虚栄心を守るために捧げる努力は並々ならぬものであるにも関わらず、それは自分を信じない心、常に不安や恐怖を原動力としているため、折れやすく脆い。

 

このように、虚栄心は個人の生きる力を、むしろそぎ落とすものなのだ。

 

ここで推測できることは、自然は、人間個人の生きる力を、“人間社会”を形成する力として利用したのではないか。ということだ。

 

人間社会は、ほとんど虚栄で成り立っている。自然的な必然によって成り立っているものはほとんど無い。道徳、宗教、文化、慣習、法律、道路・建築物その他インフラ設備、私たちが生活していくうえで欠かせないこれらのものは、すべて人間の思考が作りだしたものであり、一種のフィクションである。先住民族など極めて文明化されていない集団においてさえ、ある種の宗教がある。

 

そして、人間が生きていくためには、生まれた場所における社会に適応していかなければならない。人間は動物のような本能が無く、思考によって行動しなければならず、これに自己を適応させようとすれば、必然的に偽りの仮面を纏うことになる。

 

この仮面こそ虚栄心である。

 

だから虚栄心は、人間が生活していくために必要不可欠な人間社会に適応しようとするため、人間に必然的に備わったものだと考える。

人は何故笑いを隠すのか

人は人前で笑うことを隠そうとする。

 

それはなぜか。また、この際何を隠そうとしているのだろうか。

 

まず、その顔面筋肉の歪んだ表情であろう。それは笑顔とも違う“笑い顔だ”

 

笑い顔は、人が人とのコミュニケーションにおいて友好的でもなく、かといって明確に敵対的でもない、特殊な表情である。

 

とにかく人は、この意味も無い笑い顔を人前にさらすことを嫌がるのである。それは一種の強い不格好だからだ。

 

人は、髪型や服装や、しぐさ、言葉遣いなどについて不格好になることを嫌う。表情も自分の容姿の一つであるからして、人がなぜこれらを隠そうとするのかが分かれば、人がなぜ笑い顔を隠そうとするのかも分かるだろう。

 

 

****

 

 

ところで、人の序列意識は、何に由来するのであろうか。

 

「あいつは自分より上で、あいつは自分より下だ」

このように考えるのは、何を基準にしているのであろうか。

 

思うにそれは、虚栄心をいかに隠せているか、ということではないだろうか。

 

「オトナになる」という表現の意味するところはつまり、虚栄心を人に悟られないようにふるまえる、という意味だろう。

 

大人っぽい人というのは、外見やふるまいからその虚栄心を悟られにくい人なのである。

 

人は本能的に見下されることを恐れるから、こうして皆大人になろうとして躍起になる。

 

言葉遣いや、服装に対し人があれほど気を使うのは、無意識にその虚栄心を隠そうとする努力の現われなのである。

 

 人の虚栄心は、社会に対し実害を与えるほど深刻な性格的欠点ではない。しかし社会がこうむる不利益があることも確かなのである。虚栄心は人を自分の世界にこもらせる。だからこれに歯止めをかける必要があるが、この方法こそが笑いなのである。

 人の虚栄心を傷つける方法として、これほど効果的かつ簡単な方法は他にない。虚栄心は劣位の感情に弱い。毅然とした罰はかえって虚栄心を燃え上がらせさえする一方で、人は他人から投げかけられる笑いひとつで、いとも簡単に態度を改めようとするのである。

 

だから笑いは、むき出しになった虚栄心に対してなされる制裁なのである。

 

だが、虚栄心を笑うのもまた虚栄心なのである。

 

自然は、人間の悪を利用したのである。悪を持って悪を制す、とベルクソンが言ったのはこの意味においてではないかと思う。

 

人の虚栄心をもって、他の虚栄心を制するのである。

 

だから、人が誰かの虚栄心を笑う時、その笑い顔を通して、相手もまた、笑った者の虚栄心を見透かすのだ。

 

それを本能的にわかっているが故、人は笑い顔を隠そうとするのではないだろうか。

 

笑いは、人のむき出しになった虚栄心を見て喜ぶ優越の感情であり、フロイトの言葉を借りて直訳するならば

 

「私はアイツより社会的に上手くやれているぞ」ということになる。

 

 

コメディアンに求められる才能

お笑い芸人とか、喜劇作家とか、笑いを芸術に作り変える職業に求められる才能は何だろうか。

 

人に笑われるというのは、芸人の一つの才能かもしれないが、

 

人に笑われる人というのは往々にして、自分がなぜ笑われているのかが分からない人が多いような気がする。なぜなら、そのような人は自分が見えていないがゆえに、つまり注意力にかけているがために笑われるからである。

 

意図的に笑いを作りだすということは、鋭い観察眼が無ければならない。世間を見渡して、何が標準で何が異常か、つまり 浮いてるか浮いていないか、の判断力が無ければならない。

 

フランスの喜劇作家モリエールは、社会風刺能力に優れた人だったし、日本のお笑い芸人の大御所、例えば松本仁志やビートたけしをみても、やはりどこか社会を皮肉るような核心をつくような発言をする。漫談で有名な綾小路きみまろは、ネタ作りの際に実際に街中に繰り出して精細な人間観察をするそうだ。

 

世間で認められている標準があり、そこを崩すことによって笑いは作られるので、鋭い観察眼は絶対に必要である。

 

一発屋芸人が、その知名度を生かせず姿を消す人が多いというのは、単なる偶然によって一時的に世間の笑いを誘ったが、それがなぜ笑えるものだったかの分析が出来なかったため、つまり観察眼が無かったためではないだろうか。

 

では、観察眼さえあればコメディアンたりうるであろうか。

 

それならば、笑いを哲学する学者は、コメディアンになれるだろうか。恐らく無理だろう。

 

もしそれが出来るとすれば、ベルクソンはコメディアンになれるだろうし、アリストテレスだってなれるだろう。

 

笑いを分析することと、笑いを創造することは全ちがう。

 

数式の証明はできても、数式を思いつくことが出来ないのと同様に、

 

あるいは小説の評論が出来ても、小説を書くことが出来ないのと同様に、

 

笑いの理論に精通しているからといって、笑いを生み出すことはできない。

 

笑いは生きた人間の意識活動であり、それは一つの創造である。

 

分析によって組み立てられるものは単なる機械である。

 

だから、笑いを生み出すには、観察眼だけでなく、創造的な能力も必要になるだろう。

 

コメディアンに限らず、芸術家には創造する能力が求められる。

 

コメディアンが特殊なのは、他の芸術が一般的に世俗と切り離されているのに対して、笑いは、社会習俗との間を行ったり来たりする中間地帯に存在するという点である。

 

言ってしまえば、コメディアンは他の芸術家よりも“常識人”であることが求められるのだ。世俗的な立ち振る舞いができ、そこからくる余裕があってはじめて、笑いを創造するということができるのではないだろうか。

おかしな服装や表情や、身振り言動  社会的に隠されるべきもの

笑いとは何かを語る際、それは大抵、

 

楽しくて愉快な記憶を語ろうとするのである。

 

それは、お笑い番組であったりコメディドラマであったり、仲間とのふざけ合いであったりする。

 

だがそれは、笑いの本来の姿ではない。

 

本来の笑いは、人の欠点を指さして侮辱するような、社会的な実利的要請から生まれるもので、もっと陰湿で苦々しいものだ。

 

例えば、通りすがりの赤の他人を見て、ふとおかしみがこみ上げてくる。あなたは笑いが出るのを必死でこらえる。後で振り返っても、なぜ笑えたのかが良くわからない。だが些細なことなので記憶にも残らない。

 

人の意思に訴えず、全く自動的なもの。このような性質のものが、社会という本来の場における笑いなのだ。

 

お笑い番組やコメディドラマ、仲間との談笑などは、この人を笑わせる仕組みだけを取り出して、引き伸ばしたものだ。それは一種の芸術的なものといってもいい。

 

私たちは、笑いを語るとき、このうような芸術に昇華された笑いこそが笑いだと語りがちである。それは強いおかしみである。しかしその強いおかしみは、人を侮辱し習俗を懲戒するという実利的な笑いが、その根源にあるのである。

 

 

ところで人は、他人のおかしな服装や表情や、身振り言動を笑う。人はそうやって笑われないために、服装や身なりに気を使う。

 

適切な服装や身なりを装うことは、社会的な義務という側面を持っている。だからこれを笑うということは、その笑いは社会的矯正という実利的な本来の姿の笑いである。

 

人は何故、他人のおかしな服装や表情や、身振り言動を笑うのか。

 

 

例えば性的なものが、公の場において露見している場合、往々にして人は笑いを禁じ得ないだろう。

 

テレビのニュースで豊年祭り(子孫繁栄を願って男性器を模した物体を担いで練り歩く祭り)が映し出されると笑いを誘う。

 

また、寝癖とか、はみ出したシャツとか、空いているズボンのチャックを見て人は笑う。

 

成人女性のメイクも同様に、すっぴんは公で隠されるべきという社会的要請から、ノーメイクの疲れたような表情を見て人は笑う。

 

これらのことから推測するに、

 

隠されること、隠されるべきことによって成り立っている社会的なものが、露わになると、人はそれを笑うのではないだろうか。

 

 人間社会は虚栄で成り立っている。その社会が高度になり、より複雑になるにつれて、その虚栄もどんどん大きくなり、多様になり、社会はその調和と均衡を保つためにより多くの努力を払わざるを得ない。その調和と均衡は、ますますもろく、少しの衝撃で簡単に崩れ得るものとなる。すると、笑われるべき対象、社会的タブーもますます増えることになる。社会が高度になればなるほど、社会がこれらに求める水準は高くなり、人々は注意深く自分の身を適応させていかなければならない。

 

 公の場において隠されるべきものは、身体だけではない。人の性格も同様である。なかでも人見知りは、大人の世界では特に隠されなければならない性格であろう。

 

 性格は、ファッションであったり、表情、しぐさ、言動、という微妙なものによって世間の目にさらされる。

 

 ファッション、表情、しぐさ、言動。社会がこれらに求めるものは、非社交性の秘匿ではないだろうか。社会において非社交性は致命的な欠点であり、人前では隠されなければならない。これに失敗した場合に、人は笑うのではないだろうか。

 

 ただこれらの難しいところは、性器を露出しないとか寝癖を整えるとか、単純に対策が出来ないところである。自分で自分のそれを正確に見ることは、非常に難しいのだ。だからこそ、ふだんから人と触れ合うことを心掛けなければならない。非社交的な性格の人は、やはり服装とか身振り言動にその顕現がどうしても出てしまう。

 

 流行のファッションとか、髪型とか、そういった付け焼刃的に外面を取り繕っても、人間は直感的に、その下に隠れた非社交性、性格的こわばりを見抜くのである。そしてそれを笑うのである。

 

 むき出しになった非社交性が顕著であればあるほど、そして、本人が気づいていなければいないほど、おかしみの強さは増すように思われる。

笑いと虚栄心

 ベルクソンは、「笑い」の最終章・「性格のおかしみ」において、

 

 滑稽な性格とは、むき出しになった虚栄心のことであり、人はそれを笑うのである。

 

 と述べる。

 

 虚栄心は、偽りの自己の演出であり、言うなればそれは仮装であり、内部に浸透せず表面にとどまっており、その人と一体化しない。ゆえに、まるで顔に付いたゴミのように、不注意によって周囲にその間抜けさを露出させ笑いを誘うのである。

 

ここで疑問に思うのが、

 

ベルクソンの以上の理論が正しいとして、では虚栄心を笑う性格は、正常な性格だろうか?ということだ。

 

哲学者・三木清は「人生論ノート」の「虚栄について」の見出しで、こう述べている。

 

 “虚榮は人間的自然における最も普遍的な且つ最も固有な性質である。虚榮は人間の存在そのものである。人間は虚榮によつて生きてゐる。虚榮はあらゆる人間的なもののうち最も人間的なものである。”

 

ベルクソンも同様に、

 

“虚栄心は自然的なものである” “それは空気のように人類の中に瀰漫している”と述べ、人間固有のものとして捉えている。

 

つまり、虚栄心を全く持たない人間は現代社会においては存在しないということだ。

 

人が人の虚栄心を笑うにしても、笑う側の人間もまた虚栄心を持っているのだ。

 

これは私の経験上からくる推論に過ぎないのだが、

 

人は他人の虚栄心を笑うというよりも、

 

むしろ自らの虚栄心が、人を笑うように仕向けているのではないか、

 

と思うのである。

 

人を笑うことができるのは、自分にもまた虚栄心があるからこそではないか。

 

それが証拠に、時代や流行に乗り遅れた人を、人は笑うではないか。

 

流行とは、一つの虚栄の結果である。虚栄に塗られた心が、虚栄を持たない裸の実体を見て笑うのである。

 

そして、注意深く人間を観察するならば、虚栄心の強い人ほどよく人を笑う。しかもそれは、さっぱりとした笑いではなく、苦々しい笑いだ。他人に屈辱を味あわせ、習俗を懲戒するという意味においての、人間社会の本来的な要請に基づいた実利的な笑いだ。

 

自然という功利主義者

 

 ベルクソンは著書「時間と自由」において、以下のように述べる個所がある。

 

 「自然ほどの功利主義者が・・・」

 

 ベルクソンは、自然を功利主義者だと言っている。

 

 功利主義という概念についてはあまり詳しく知らないが、彼の哲学の文脈から読み取る限りだが、私はだいたい次の通りに解釈している。

 

 すなわち、自然は “足るを知らない” 存在ということだ。つまりは傲慢かつ臆病者だ。

 自然は、ある目的のために有用なことは出し惜しみをせずに実行するという一種の冷酷さを持っている。言うなれば、一人の敵を打ち滅ぼすのに10人をもってするような、常に不安要素を潰しておこうとするような、用意周到さである。

 

 確かに自然界は、弱いもの、異質なものを排除して、なにやら全体の秩序や調和を守っているかのようである。動物の世界においてそれは顕著であるが、人間の社会にもいじめや差別などが存在する。

 

 人が笑うということは、自然の功利主義な性質を最もよく表しているのだ。なぜなら、笑いは最も軽微な脅威に対してなされる対抗策だからだ。平常時においては何の実害も無い欠陥、だが放っておくとやがて大きな災いに繋がりうるほんのかすかな兆候、その微妙なものをいち早く見つけ出し、根絶しようとする性向は、功利主義者でなければできないだろう。

 

 例えば、人はなぜ、真面目な人を笑うのか。

 真面目さは、社会にとって有用な性格である。本来、排除されるべき理由はどこにもない。

 他人に迷惑をかけず、ルールを守り、真面目に生きることは一般的に受け入れられている美徳である。

 だがその真面目さは、時として人々をファシズム全体主義に傾けるのだ。だから潜在的に危険な兆候を持っている。

 平常時において、明確に実害のない人を刑罰に処するわけにもいかないし、人はこれをいじめや差別などで排除しようとするだろう。だが自然はこれだけでは満足できないらしく、いじめや差別をするまでも無い人をも、笑いによって侮辱しようとするのだ。

 

 真面目な人というのは、理念に従う人である。刻一刻と変わりゆく現実のかわりに、不変の規則や道徳という理念に追従する。だから本来、精神的柔軟性という点で欠陥を持っているのである。

 その人がいかに人が良くて、優しくて、人格者であったとしても、自然はその中にあるこわばったもの、精神的欠陥を見抜く。そしてそれを排除しようとする。決して見逃そうとはしないのである。